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ごあいさつ
歴史に心を奪われた旅人が切り取った、世界のいぶきを感じる写真と感動したことばたち。
「たびくまの都市史」は、くまをつれた日本近世史の研究者が、世界のあちこちで撮影した、珍しい写真や旅日記、旅先で考えたことを公開するサイトです。特に都市の歴史に興味があるかたは、ぜひご覧ください。ご感想やアドバイスをお待ちしています。
お知らせ


支倉常長の旅・スペイン編
支倉のヨーロッパ最初の正式訪問地、スペイン・セビーリャ。その象徴、ヒラルダの塔。 私たち夫婦がはじめてスペインに行ったのは、1989(平成元)年12月から翌1月にかけて、団体旅行の旅だった。その次の年に、かみさんに支倉常長のマンガを描く話が持ち上がる。支倉一行の足跡を追う旅ではなかったが、重なるところも多く、あとあと参考になった。 支倉一行の宿泊地、セビーリャのアルカサル(王宮) アルカサルは14世紀の王、ドンペドロ1世が建て、イスラム風の装飾が見事だ。 支倉一行がスペイン、アンダルシアの中心地、セビーリャに到着したのは、1614(慶長19)年10月27日。一行の案内役、フランシスコ派の修道会士、ルイス・ソテロの出身地だ。一行は大歓迎を受けた。 宿泊したのは、アルカサルとよばれる王宮、現在のスペイン王室でも離宮となっている。14世紀のカスティーリャ王、ドン・ペドロ1世が建設した。ドン・ペドロ1世は青池保子の傑作『アルカサル―王城―』の主人公。織田信長に似ているといったらいいか、残酷王とよばれる厳しい一面とともに、近世を切り開く傑出した才を発揮した
千葉正樹


支倉常長の旅・メキシコ編
アカプルコの港近くの公園に立つ支倉常長の銅像。仙台と石巻にある、佐藤忠良製作のブロンズ像と同じ鋳型から作られた。 1991年の7月、私たち夫婦はメキシコに行った。慶長遣欧使節、支倉六右衛門常長の足跡をたどり、その見た景色を確認するためである。 ちなみに支倉常長と表記されることの多い支倉だが、史料上確認できるのは「支倉六右衛門」であって、「常長」は「長常」であったかも知れないとされる。ここでは支倉で統一して、話を進めたい。 なぜ、支倉の旅を追うこととなったか。それは前年の暮れ、仙台の出版社、宝文堂から、その事跡をマンガ化するという企画がかみさん、真弓のもとに持ち込まれたからであった。このマンガは翌1992年4月、『ファシクラ伝―支倉常長・サムライ地球を駆ける』として結実する。「ファシクラ」とは支倉のラテン語表記をそのまま発音した場合、そうなるからである。 いまはリゾート地として繁栄するアカプルコだが、かつては太平洋交易の中心だった。 支倉の旅は太平洋横断に始まる。伊達政宗と徳川家康の共同で進められた遣欧事業は、まずメキシコに到達することを目指した。
千葉正樹


本家という存在
1993(平成5)年2月の千葉本家。江戸時代に建設され、かつては茅葺きだった。 三男坊である父の実家は、我が家では本家と呼び、盆正月には泊まりがけで訪問するならいだった。集まった祖父母、父の兄弟である叔父叔母、いとこたちにその配偶者も合わせると、20数名に及んだ。江戸時代に建てられた本家の母屋には、布団が敷き並べられ、全員で泊まることができた。 本家という存在は、令和の時代ともなると意識から遠のいてきたが、イエ制度に支えられてきた日本社会を考える上で重要なのは言うまでもない。大学では、名作「となりのトトロ」に例をとって、本家の位置づけ、本分家関係などを説明したものだった。 今は亡き本家の叔父と叔母。叔父の座っている場所が横座で、本家の当主以外は使うことが許されなかった。 亡くなった父からは千葉の家は平家で、かつては武士であったと聴かされていた。確かに千葉氏は桓武平氏で、下総国千葉荘(現在の千葉市)を領有したことから始まったとされる。古い家であることは確かで、私が預かっている史料「畑岡村風土記御用書上」には、「代数有之百姓」として、本家の本家、すな
千葉正樹
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