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ごあいさつ
歴史に心を奪われた旅人が切り取った、世界のいぶきを感じる写真と感動したことばたち。
「たびくまの都市史」は、くまをつれた日本近世史の研究者が、世界のあちこちで撮影した、珍しい写真や旅日記、旅先で考えたことを公開するサイトです。特に都市の歴史に興味があるかたは、ぜひご覧ください。ご感想やアドバイスをお待ちしています。
お知らせ


グループツァーのプラスマイナス
ドナウ川クルーズ。国旗が干してあるパンツに見えると友達が書いてきた。 オーストリアの旅は衝撃から始まった。グループ23名中、17名分の荷物が届かない!私のも届かず、パンツがない、山用の厚手のシャツがない、望遠が使えない、ひげが剃れない。 ロストバゲージの届けは、スマートフォンの英語サイトからしか、それもひとりひとり、打ち込まなければならないというもの。添乗員さんが冷静に指導してくれて、どうやら打ち込みが終わったのが最初の晩の10時半。 でも、私はまだいい方で、12時すぎてもサイトが容量オーバーでうまくつながらず(500個もの荷物を成田に置き忘れたらしい)、翌日もスマホにかじりつきながらの旅行となった方がいた。 私は着替えは一切トランクに入れていたので、夜中にパンツそのほかを洗い、すっぽんぽんで寝て、翌朝それを身につけるということとなった。 急遽、購入した衣類を守るたびくまチール。 そこで最初のミッションとなったのが、パンツなど衣類やら歯ブラシやらの購入。地元ガイドさんの案内で、まとまって買える店を紹介していただいた。 ひとりだったら、スマホでの打
千葉正樹


政宗の戦場
古戦場の草むらで思いにふけるチール。 連休明けの空いている日を利用して、福島県にある伊達政宗の古戦場をめぐってきた。かみさんの運転。かみさんは史料に基づいたマンガ『独眼竜政宗』を出している。それを参考に政宗の命運に関わった二つの戦い、人取橋(ひととりばし)合戦と、摺上原(すりあげはら)合戦のアウトラインをなぞってみたい。 人取橋の戦場はいまは国道4号線の際にある。 名もない橋だが人取橋の後継。 天正13年11月17日(西暦1587年1月6日)、冬至を過ぎて間もない、寒風吹きすさぶ人取橋の地に政宗はいた。 現在の本宮市にあった人取橋。なんとも不気味な橋の名だが、その由来ははっきりしない。後世、戦でたくさんの死者がでたから、この名を付けたともいう。 この年の10月8日、隠居していた政宗の父、輝宗が拉致され、殺害された。その弔い合戦に乗り出した政宗に対して、佐竹・芦名・岩城・石川・白川の連合軍が立ち向かう。その数、三万。対する伊達軍は七千にすぎなかった。四倍を超す敵を相手にした、政宗の生涯でも最大の危機であった。 政宗は先に主戦場を人取橋に選んだ。東に
千葉正樹


トキワ荘とカタルーニャと
復元されたトキワ荘前でひなたぼっこ。 東京、晩春の小旅行はトキワ荘マンガミュージアムと畏友、原正彦さんの写真展「カタルーニャ・クロッシング」を訪ねるものであった。相棒はいつものチール。 看板は当時の写真から復元された。 広場というものを考え続けて30年になる。今回の旅は、人びとが集う、という現象と意味、そして街にかならず広場が生まれるということ、などなど考える機会になった。 トキワ荘は現物は解体されて、ちかくに復元されている。生活感にあふれた展示から、若きマンガ家たちの広場であった時代を感じる。 ベランダも小さな「広場」だったかもしれない。 マンガ家が集まったという意味で、まずトキワ荘自体が広場であった。そしてトキワ荘の中の一段階閉じられた、マンガ家だけの広場、ベランダや共同の炊事場がある。 漫画家たちが編集者と打ち合わせる(言い訳する?)のに使っていたという公衆電話も再現。 あるマンガ家の部屋。窓の外は書き割り。 四畳半のそれぞれの個室にも、マンガ家がたむろするとき、そこが広場となる。安酒で議論したり、歌ったり、私の大学生活とも連続する時空間だ
千葉正樹
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