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ごあいさつ
歴史に心を奪われた旅人が切り取った、世界のいぶきを感じる写真と感動したことばたち。
「たびくまの都市史」は、くまをつれた日本近世史の研究者が、世界のあちこちで撮影した、珍しい写真や旅日記、旅先で考えたことを公開するサイトです。特に都 市の歴史に興味があるかたは、ぜひご覧ください。ご感想やアドバイスをお待ちしています。
お知らせ


支倉常長の旅・メキシコ編
アカプルコの港近くの公園に立つ支倉常長の銅像。仙台と石巻にある、佐藤忠良製作のブロンズ像と同じ鋳型から作られた。 1991年の7月、私たち夫婦はメキシコに行った。慶長遣欧使節、支倉六右衛門常長の足跡をたどり、その見た景色を確認するためである。 ちなみに支倉常長と表記されることの多い支倉だが、史料上確認できるのは「支倉六右衛門」であって、「常長」は「長常」であったかも知れないとされる。ここでは支倉で統一して、話を進めたい。 なぜ、支倉の旅を追うこととなったか。それは前年の暮れ、仙台の出版社、宝文堂から、その事跡をマンガ化するという企画がかみさん、真弓のもとに持ち込まれたからであった。このマンガは翌1992年4月、『ファシクラ伝―支倉常長・サムライ地球を駆ける』として結実する。「ファシクラ」とは支倉のラテン語表記をそのまま発音した場合、そうなるからである。 いまはリゾート地として繁栄するアカプルコだが、かつては太平洋交易の中心だった。 支倉の旅は太平洋横断に始まる。伊達政宗と徳川家康の共同で進められた遣欧事業は、まずメキシコに到達することを目指した。
千葉正樹


本家という存在
1993(平成5)年2月の千葉本家。江戸時代に建設され、かつては茅葺きだった。 三男坊である父の実家は、我が家では本家と呼び、盆正月には泊まりがけで訪問するならいだった。集まった祖父母、父の兄弟である叔父叔母、いとこたちにその配偶者も合わせると、20数名に及んだ。江戸時代に建てられた本家の母屋には、布団が敷き並べられ、全員で泊まることができた。 本家という存在は、令和の時代ともなると意識から遠のいてきたが、イエ制度に支えられてきた日本社会を考える上で重要なのは言うまでもない。大学では、名作「となりのトトロ」に例をとって、本家の位置づけ、本分家関係などを説明したものだった。 今は亡き本家の叔父と叔母。叔父の座っている場所が横座で、本家の当主以外は使うことが許されなかった。 亡くなった父からは千葉の家は平家で、かつては武士であったと聴かされていた。確かに千葉氏は桓武平氏で、下総国千葉荘(現在の千葉市)を領有したことから始まったとされる。古い家であることは確かで、私が預かっている史料「畑岡村風土記御用書上」には、「代数有之百姓」として、本家の本家、すな
千葉正樹


仙台幻夢譚Ⅲ
家庭の動画は8㎜がまだ主流だった。 仙台に帰ってきて、40年を過ぎた。1984年から85年にかけては、東京と仙台を行ったり来たりして、写真に夢中になっていた。そのころの写真を眺めてみると、時代の隔たりを感じる一方で、今につながる動きも知ることができる。バブル期の直前、就職氷河期は終わりつつあり、街は賑わいを取り戻していた。 バブル期の直前、今とは違った質の人手不足があった。 手ぶれしてしまったが半導体研究所のクリスマスイルミネーション。LEDの走りだった。 まだ光のページェントは始まっていなかった。クリスマスは雪が多かった気がする。 クリスマスというと、今は全国で街路のイルミネーションが輝く。仙台の光のページェントがその先頭に立っているが、84年当時はまだ開始されていない(始まったのは86年)。だが、その前に東北大学に隣接する半導体研究所では、イルミネーションを始めていた。うち、文字の部分だけが、当時、開発の最前線にあったLEDだった。世界の半導体の半分以上を日本が生産する、そんな時代が来ようとしていた。 小正月を繭玉で祝う習慣は生きていた。..
千葉正樹
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