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ごあいさつ
歴史に心を奪われた旅人が切り取った、世界のいぶきを感じる写真と感動したことばたち。
「たびくまの都市史」は、くまをつれた日本近世史の研究者が、世界のあちこちで撮影した、珍しい写真や旅日記、旅先で考えたことを公開するサイトです。特に都市の歴史に興味があるかたは、ぜ ひご覧ください。ご感想やアドバイスをお待ちしています。
お知らせ


政宗の戦場
古戦場の草むらで思いにふけるチール。 連休明けの空いている日を利用して、福島県にある伊達政宗の古戦場をめぐってきた。かみさんの運転。かみさんは史料に基づいたマンガ『独眼竜政宗』を出している。それを参考に政宗の命運に関わった二つの戦い、人取橋(ひととりばし)合戦と、摺上原(すりあげはら)合戦のアウトラインをなぞってみたい。 人取橋の戦場はいまは国道4号線の際にある。 名もない橋だが人取橋の後継。 天正13年11月17日(西暦1587年1月6日)、冬至を過ぎて間もない、寒風吹きすさぶ人取橋の地に政宗はいた。 現在の本宮市にあった人取橋。なんとも不気味な橋の名だが、その由来ははっきりしない。後世、戦でたくさんの死者がでたから、この名を付けたともいう。 この年の10月8日、隠居していた政宗の父、輝宗が拉致され、殺害された。その弔い合戦に乗り出した政宗に対して、佐竹・芦名・岩城・石川・白川の連合軍が立ち向かう。その数、三万。対する伊達軍は七千にすぎなかった。四倍を超す敵を相手にした、政宗の生涯でも最大の危機であった。 政宗は先に主戦場を人取橋に選んだ。東に
千葉正樹


トキワ荘とカタルーニャと
復元されたトキワ荘前でひなたぼっこ。 東京、晩春の小旅行はトキワ荘マンガミュージアムと畏友、原正彦さんの写真展「カタルーニャ・クロッシング」を訪ねるものであった。相棒はいつものチール。 看板は当時の写真から復元された。 広場というものを考え続けて30年になる。今回の旅は、人びとが集う、という現象と意味、そして街にかならず広場が生まれるということ、などなど考える機会になった。 トキワ荘は現物は解体されて、ちかくに復元されている。生活感にあふれた展示から、若きマンガ家たちの広場であった時代を感じる。 ベランダも小さな「広場」だったかもしれない。 マンガ家が集まったという意味で、まずトキワ荘自体が広場であった。そしてトキワ荘の中の一段階閉じられた、マンガ家だけの広場、ベランダや共同の炊事場がある。 漫画家たちが編集者と打ち合わせる(言い訳する?)のに使っていたという公衆電話も再現。 あるマンガ家の部屋。窓の外は書き割り。 四畳半のそれぞれの個室にも、マンガ家がたむろするとき、そこが広場となる。安酒で議論したり、歌ったり、私の大学生活とも連続する時空間だ
千葉正樹


石巻に生まれて
桜に包まれた石巻城址(日和山公園)。大きい鳥居の奥が本丸。 石巻の通称日和山神社は、私が誕生して最初のお宮参りを済ませたところだ。両親はここで結婚式を挙げた。日和山の名の通り、かつて船乗りはここから天候を見通し、また、入港するときは「山当て」、山との角度や距離感で航路を探っていたという。 また、ここは戦国時代の城、石巻城の跡でもある。段々になった曲輪には、近代になって桜が植えられ、憩いの場所となった。 鹿島御児神社の鳥居からは太平洋を望める。 案内板でひなたぼっこするチール。 旧北上川河口の門脇には311のあの日までは稠密な住宅地が広がっていた。 あの3.11の日、太平洋に面した石巻門脇地区の方々は、日和山の急な石段を駆け上って、避難した。しかし犠牲は大きかった。私の勤めていた大学の学生もひとり、ここで命を失っている。私が父に連れられてハゼ釣りに行った岸壁は破壊された。自転車で駈け回った通りの記憶だけが残っている。 曲輪の跡はいいお花見スポットになっている。 北上川方向から望む石巻城址。川と海を支配する拠点だった。 かつて石巻城を拠点としていたの
千葉正樹
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